【特集】余市を知る 第3回
石窯と余市
特集:余市を知る

第三回:余市蒸溜所、その歴史

 さて今回は、少し趣向を変えて余市蒸溜所の歴史についてご紹介させて頂きたい。創業者、竹鶴政孝が後のニッカとなる「大日本果汁株式会社」を設立したのは昭和9年。以前もご紹介したように当初、余市蒸溜所はリンゴジュースを製造・販売する工場として操業をスタートした。実際に蒸溜の設備が整ったのは昭和11年。この年の末に、念願の単式蒸溜器(ポットスティル)が備え付けられた。製作にあたったのは大阪の渡辺銅鉄工所。当初の予定では2基設置となっていたが、資金不足の為に1基のみの設置となった。設備が整い、蒸溜はすぐさま開始された。しかし、ウイスキーは蒸溜してから数年は熟成させなければ完成しない。すぐに販売ができない以上、蒸溜すればするほどコストはかさんでいき蒸溜所の経営は危機的状況に陥っていった。
大日本果汁株式会社の事務所

大日本果汁立ち上げ時の事務所。この頃はまだ蒸溜設備はなく、リンゴの破砕設備や搾汁設備、瓶詰め設備などが備え付けられていた。

事務所内部

事務所内部。現在は当時の事務所を再現した建築物が蒸溜所内に建設されており、この写真はそこを撮影したもの。

 苦難の中、昭和1510月になりついに余市蒸溜所産のウイスキーが発売された。製品名は「ニッカウヰスキー」。丁度この頃、日本ではウイスキーにも公定価格および等級表示が始まりニッカウヰスキーは一級ウイスキー の指定銘柄として公示されることとなった。それと同時に、余市蒸溜所はウイスキーを軍納する海軍監督工場として指定された。その後、終戦まで余市蒸溜所は主に軍に向けて製品を納入する工場として操業を続けた。製造したウイスキーは公定価格で軍が買い上げてくれたので、危機的だった経営もなんとか持ち直した。終戦間際には北海道も空襲の被害にあったが、幸運にも蒸溜所は被害を免れた。もしも、蒸溜所に空襲が及べは高アルコールの液体が大量に保管されている貯蔵庫などひとたまりも無かったであろう。終戦後、蒸溜所は通常のウイスキー蒸溜所として操業を開始した。しかし終戦後の日本は物不足の時代。一級ウイスキーを買うことの出来る人間は一握りに過ぎず、ウイスキーと言えば原酒が一滴も入ってないような模造ウイスキー が出回っているような世の中であった。ウイスキーの売れ行きが鈍り再び苦難が訪れた蒸溜所に、追い討ちをかけるがことく悲劇が襲った。昭和21年、蒸溜器周辺で火災が発生したのだ。この時も貯蔵庫に大きな被害は出ずに済んだが蒸溜施設は大きく損なわれ、しばらく蒸溜停止を余儀なくされてしまった。

ニッカウヰスキーとポスター

「ニッカウヰスキー」発売時のボトルとポスター。高級感とモダンさが組みあわさった、独特のデザインが目を引く。

 昭和25年になると物不足も収まりを見せ、ウイスキーの販売は自由化された。それに伴いウイスキー市場は価格の安い三流ウイスキーへ需要が集中し、反対に余市蒸溜所産の本格ウイスキーは売れ行きが落ちていった。それでもなお、政孝は蒸溜所の方針・製造方法を曲げずにあくまで品質重視を貫いた。
 結果的に、その姿勢は後世で大きな評価を得ることになった。創業当時の伝統を頑なに守ることが今も変わらぬ余市のスタイルを作り上げ、今では世界的なウイスキーの一つして広く知られている。また、余市蒸溜所はウイスキー造りの拠点としてだけでなく歴史的建造物としても価値を評価され、現在では建造物の一部が登録有形文化財として指定を受けている。こういったところからも伝統を大切に受け継いで来たのかが見て取れないだろうか。
国の登録有形文化財に指定されてる蒸留棟

国の登録有形文化財に指定されている「蒸溜棟」この他、第一乾燥棟や第一貯蔵庫など計9つの建物が指定されている。

 苦境に負けず、信念を守り続ける。余市のモルトにはその難しさと価値が詰まっている。
ウイスキー余市特集