【特集】余市を知る 第6回

第六回:「創業者:竹鶴政孝」

 六回にわたり余市の魅力についてご紹介させて頂いて来たが、最終回となる今回は創業者である「竹鶴政孝」の人となりや、氏の目指したウイスキーといったところを眼目としていきたい。
 広島県賀茂郡竹原町(現:竹原市)の酒造業・製塩業を営む竹鶴家の三男として生まれた政孝は、幼少期より酒造りという環境に触れながら育った。竹鶴家の酒造りは品質本位が信条であり、後に政孝が抱く「本物」を目指す姿勢はここから生まれたのではないだろうか。
 竹鶴家の長男・次男は酒造りを継がなかった為、政孝は竹鶴家の跡取りとして大阪高等工業で醸造について学ぶこととなる。その中で洋酒について興味を抱いた政孝は、当時の洋酒業界で大きく活躍していた「摂津酒造」へ入社。当初は徴兵まで間、洋酒造りについて造詣を深めるために働きその後は実家に戻る予定であったが、徴兵の免除や洋酒に対する熱意から勤務を継続。その姿勢は摂津酒造の社長である阿部喜兵衛に認められ、本物の国産ウイスキーを製造するためスコットランド留学のチャンスを与えられる。
 本場で体験するウイスキー造りはどれも書物で知ることが出来ない新鮮な体験であった。本物のウイスキーはどんなものであるのかを政孝はその五感で学び、この留学を終える頃には日本に本物のウイスキーを、という想いははっきりと固まっていた。
留学時政孝が使ったパスポート。留学は決して楽な物ではなく、蒸溜所の実習に携わるのにすら数ヶ月を要したそうだ。
 日本に戻った政孝は、紆余曲折を経て摂津酒造から壽屋(現・サントリー)に入社し日本で初の本格ウイスキー蒸溜所建設に着手。そこで10年程経験を積んだ後に、自身の納得するウイスキー を造るために独立。1934(昭和9)に北海道・余市に大日本果汁株式会社を立上げ、ついに蒸溜所を建設することとなる。

「よく働きよく遊ぶ」。活動的な人間であった政孝の一端がわかる写真。32キロもあるこのオウヨという魚を、2時間もかかって釣り上げたそうだ。

 「本物」にこだわる政孝の造るウイスキーは常に品質重視。当時はまだまだ原酒がろくに入ってないような低品質ウイスキーが主流の中で原酒含有率にこだわったウイスキーを製造し続けた。当然価格は高くなるが、「良いものが高くなるのは当然」と安売りはしなかった。
 後に、社とそこで働く仲間を守るために当時の三級ウイスキー製造に踏み切るがその時も法律で定められたギリギリまで原酒を入れるという通常とは真逆のやり方で出来る限りの抵抗をしたほどである。
政孝が毎晩飲んでたというウイスキーのボトル。健啖家かつ酒豪として知られた政孝は、毎日このボトル1本を空けたという。
 時代が進むにつれ、政孝の生んだ本物の国産ウイスキーは高い評価を獲得していくこととなる。また、政孝の精神を受け継いだニッカウヰスキーの職人たちが生んだ珠玉の名作達が世界からも高い評価を得たことは、以前紹介させて頂いた通りだ。
 あくまでも本物を求め、その為には頑なまでに伝統を守り続ける。この政孝の姿勢は、政孝の没後もニッカウヰスキーの中に息づき今も力強く脈打っている。ウイスキーブーム再来とも言われる昨今においても、その姿勢に一切のゆらぎは無い。ニッカのウイスキーに感じられる「芯」は製法・土地だけでなく、こういった信念に裏打ちされているのではないかと思わざるを得ない。

政孝とその妻、リタの墓。偉大なる日本ウイスキーの父は、蒸溜所を望む丘に眠っている。

 半年にわたり様々な方向から「余市」、そしてニッカウヰスキーの魅力についてご紹介させて頂いたがいかがだったろうか。たった数百ミリの容量しかないウイスキーのボトルには、計り知れない情熱、想い、歴史、風土、といった背景が詰まっている。その事をこれから「余市」を口にする際、思い浮かべて頂けたら幸いである。
ウイスキー余市特集